古/いにしえの面影       其の六百九

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

 撮影日  2008年07月05日 火曜日

奈良県橿原市今井町T

前のデータを引っ張り出して〜
古くは興福寺一乗院の荘園であった。
永禄年間に顕如上人により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部卿)が門徒や
在郷武士・牢人とともに称念寺を中心とする寺内町をつくった。(今井庄環濠集落)
石山合戦の際には、石山本願寺について織田信長に反抗し、
環濠(飛鳥川と高取川を利用)や土塁、
見通しを妨げる筋違いの道路等を築き、西口に櫓を設け環濠城塞都市となった。
1575年(天正3年)、織田信長の降伏勧告を拒絶したが、
結局降伏を余儀なくされた。
信長も、土民なみになる(武装放棄)を条件に「万事大坂同然」として、
この町に大坂と同じように特別の立場を認め、自治都市として「海の堺」に対し
「陸の今井」として栄えた。
また、豊臣秀吉に認められて明治初年頃まで町の入口に開く番屋も残存、
自治都市としての特権の象徴であった。
親戚以外の者を泊めることを禁ずるなど、町独自の「町掟」も決められ、
遠隔地商取引の拠点として財力は大きな魅力で天領等の幕府直轄となった。
つまり、惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権を与え、
自治的特権を与えたのである。
茶道・華道・能楽・和歌・俳諧などの文化・文芸に従事し、「今井千軒」と呼ばれ
1679年(延宝7年)には家数1082軒、人口約4400人を数えた。

重要文化財9件12棟、県文化財3件11棟、市文化財4件4棟。
重要伝統的建造物群保存地区に選定。 (Wikipedia参照)


いざ、行かん〜
環濠の跡の水路越えて。

※環濠内は
整然とし町造り。

七夕の風景

のんびりと〜

用水桶も〜



本瓦が綺麗な
町並み

※この先、道が狭い〜
私の好きな風景。

駒繋金具

※桟金具も
街の部品

町屋保全
大変ですね。

※伝統と耐震と…

振袖壁も
千鳥格子も〜

※街の中は、
ゆったりとした時間が…

コナレ具合が〜
江戸期の町並み旁が
其のままに。

※文化財
守れる人こそ
文化人

(不倫は文化だ!とは違いますよね。)^^;

駒繋金具
意匠が綺麗!

※醤油屋さん
暖簾も敲きも。。

妻入りの町並み
スケッチ人も
町並みに溶けて〜
私も…

※何だか嬉しくなります。

錘馗様
古代中国「唐」の頃
玄宗皇帝が神として祀ることにしたとか。
天下国家の災いを除き
端午の節句では、赤ちゃんを病魔から守り、
頭が良くなるようにと受験の守り神ですと。

※此処にも〜

商家でも町家でも
弁柄は、この街では見ませんでした。

※虫籠窓は
普通に〜

本瓦、千鳥格子
腰板が…
エエでしょう〜

※鰯の頭も〜

見返れば、
うっとりと〜
足が止まります。

※袖壁に家紋
鏝絵
職人のニヤリが〜

賑やかだった
その頃が見えそうで〜

商家の正面曲がれば〜

※蔵並も〜

寺内町中心の
称念寺さん
表門

※本瓦本堂が綺麗!
前に行った
久宝寺思い出します

1877年(明治10年)2月10日〜11日明治天皇の
「大和行幸」の際の今井行在所(あんざいしょ)であった。
このとき陛下は、西南の役勃発の第一報を
お聞きになっている。(Wikpediaより)


※国旗掲揚台兼ねて。
史跡指定記念碑

元は堺の
羽車印度カレー
看板見っけ!

※立派な表門
談山神社から
明治天皇宿泊時に
移されたとか〜

本願寺門徒の寺内町として発達、
今井御坊だそうです。

※ホンニ
寺内町の町並みは
似ています。

大きな
懸魚
漆喰が〜

※トタンが…
何とか成りません?
行政さま。。
『ワッカン!(UFO先生は、いつも私をそう呼んだ)
サンコの用事でナ…チョイト付きおうて〜や!』
この一連のページを、昨年末に急逝された
私が大好きだったUFO先生に奉げます。
一番の理解者で&応援して頂きまして
ありがとう御座いました!涙

いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら〜
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