前のデータを引っ張り出して〜
永禄年間に顕如上人により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部卿)が門徒や
在郷武士・牢人とともに称念寺を中心とする寺内町をつくった。(今井庄環濠集落)
石山合戦の際には、石山本願寺について織田信長に反抗し、
環濠(飛鳥川と高取川を利用)や土塁、
見通しを妨げる筋違いの道路等を築き、西口に櫓を設け環濠城塞都市となった。
1575年(天正3年)、織田信長の降伏勧告を拒絶したが、
結局降伏を余儀なくされた。
信長も、土民なみになる(武装放棄)を条件に「万事大坂同然」として、
この町に大坂と同じように特別の立場を認め、自治都市として「海の堺」に対し
「陸の今井」として栄えた。
また、豊臣秀吉に認められて明治初年頃まで町の入口に開く番屋も残存、
自治都市としての特権の象徴であった。
親戚以外の者を泊めることを禁ずるなど、町独自の「町掟」も決められ、
遠隔地商取引の拠点として財力は大きな魅力で天領等の幕府直轄となった。
つまり、惣年寄を頂点に町年寄・町代を置き、警察権・司法権・行政権を与え、
自治的特権を与えたのである。
茶道・華道・能楽・和歌・俳諧などの文化・文芸に従事し、「今井千軒」と呼ばれ
1679年(延宝7年)には家数1082軒、人口約4400人を数えた。
重要文化財9件12棟、県文化財3件11棟、市文化財4件4棟。
重要伝統的建造物群保存地区に選定。 (Wikipedia参照)